2020/12/14
予てより計画していた四国八十八箇所遍路旅を本日より開始。もちろんロードバイクでつれ合いとの二人旅です。お大師様といっしょと言う意味では同行三人ということになるでしょうか。
車のルーフにロードバイク2台を積み出発。午前中に鳴門に到着。札所めぐりは明日からとして、まずは四国への玄関口、鳴門市の大毛島、島田島あたりをポタリング。景色の美しいところです。
大鳴門橋を渡って鳴門北ICのすぐ近くにある網干休憩所に駐車してポタリングを開始。上記ルート図を反時計回りにまわった。
鳴門公園に到着。大鳴門橋は目と鼻の先にある。眼下の海は渦が発生するほど流れが急だ。
大毛島から島田島へ渡る堀越橋からの眺め。橋から真下を見ると潮流が激しく、流れの急な川のようである。ウチノ海に目をやると釣り用の筏でいっぱいだ。
県道183号(鳴門スカイライン)から脇道に入り瀬戸町室の海沿いの細道を走ろうとした。風が強く若干のスリルを感じながら走っていたが、だんだん波しぶきがかかるようになり、とうとう先に進めなくなった。無理をすれば進めなくもなかったが、ずぶ濡れになるのは確実。今日は気温も低く、身体が濡れれば命取りになる。仕方なく引き返し、もう一度県道183号に戻ることにした。
四方見展望台で暫し休憩。ウチノ海の景色がすばらしい。
県道183号を走り、小鳴門新橋を渡ったところで脇道を下り県道182号、さらに県道42号へと走る。この辺りには海鮮料理店がたくさんある。昼メシは予め目を付けていた「味処 あらし」で食べた。正午過ぎに店に入ったのだがほぼ満席。我々が食べている間に、たちまち待ち客で溢れる状態になった。私はクエのあら煮定食、つれ合いはカワハギの煮付け定食をチョイス。クエとカワハギをお互いにシェアして食べた。この煮魚のうまいのなんの。たっぷりのワカメ汁もうれしい。やはりこの店で正解だった。
昼食後は小鳴門橋を渡って大毛島へ。小鳴門橋では強風にあおられ自転車が大きくブレた。危険なので自転車を降り、押して渡った。出発点の網干休憩所まで戻り自転車を車に積んで一番札所の霊山寺に向かった。今日は霊山寺の隣りにある「大鳥居苑」に宿泊予約している。
霊山寺に着いたがチェックインするには時間が早いので周辺をポタリングした。
まず板東俘虜収容所跡地(ドイツ村公園)を訪れ、さらに鳴門市ドイツ館で俘虜収容所の当時の様子を学び、ドイツ館に隣接している鳴門市賀川豊彦記念館を見学した。「俘虜」という言葉が聞き慣れないが、後で調べてみると一般的に使う「捕虜」と同義であるらしい。ここに収容されたのは第一次世界大戦時、青島(チンタオ)で日本と戦って敗れたドイツ兵士(および一部オーストリア・ハンガリー帝国兵士)なのだが、第二次世界大戦まで日本陸軍では俘虜と呼んでいたようなのだ。日本は国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍俘虜を丁重に扱ったという。特に板東収容所ではドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。ベートーヴェンの「第九」はこのときドイツ帝国軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。アジア初の「第九」演奏会である。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成したほどだという。
このように過去の戦争における日本は国際法を遵守することを基本としている。日露戦争も然りである。太平洋戦争における日本への非難については、戦争という行為の是非はともかく、ひとつひとつ事実を確認して語られねばならないだろう。歴史は常にねじ曲げられて伝わっているものであり、史実とされていることの中には捏造されたものもある。丁寧かつ公平な検証が必要であろうと感じた次第。
賀川豊彦記念館では、社会的弱者の救済活動に身を投じ、日本の社会運動の草分け的存在であった賀川豊彦氏について学んだ。恥ずかしながら私は氏のことを知らなかった。賀川氏は関東大震災でのボランティア活動や労働運動、農民運動などを展開。さらに昭和20年には「日本協同組合同盟」を結成して、生活協同組合などの組織を生み出す基礎をつくったという。また小説家としても1920年(大正9年)に自伝的小説『死線を越えて』を出版、わずか一年で100万部超という一大ベストセラーとなった。その後も数々の小説を発表し、これらの原稿料や莫大な印税はほとんど関与した社会運動のために投じられたという。私は小説をたくさん読んできたが『死線を越えて』はまだ読んでいない。読んでみたいと思う。
さて今晩の宿泊は霊山寺の隣りにある「大鳥居苑」。夕食にはうなぎ会席をお願いした。遍路旅開始前に精力をつけておこうということです。酒は徳島の銘酒「芳水」。食事も酒もおいしゅうございました。